もう駄目だと思ったときが、仕事の始まり

盛和塾

稲盛塾長

「もう駄目だと思ったときが、仕事の始まり」

「経営者とは何か」

稲盛和夫氏が主宰した「盛和塾」で、経営者たちは何を学んでいたのか。それは「経営者とは何者なのか」という根源的な問いに対する答えである。名経営者とその門下生たちの対話をまとめた「経営者とは 稲盛和夫とその門下生たち」の中から、一部を紹介する。第2回は、福岡市で塗料販売会社を経営する西井兄弟の物語。日産自動車の下請けが経営危機から這い上がるきっかけとなった師の言葉とは。

 「わざわざ東京から福岡まで、遠路お越しいただいたのは本当にありがたいのですが、私たち兄弟、大した話は何もできやしませんよ。1929年創業と歴史だけはそれなりにありますけど、リーマン・ショックに東日本大震災、次から次へと押し寄せる荒波に、兄弟と従業員、みんなで力を合わせ、必死になって会社を存続してきただけです。もっとも一番つらかったのは、その前に起きた日産リバイバルプランですが……。稲盛塾長には足を向けて寝られません。塾長のおかげで、あのとき私たちは助かったんですから」

 西井塗料産業(2015年にニシイへ商号変更)社長の西井一史(かずふみ)は遠慮がちにそう言って、隣に座る専務の博文を見た。

 270人の従業員を抱える西井塗料産業は、九州最大の塗料専門商社だ。一史の祖父が九州初の塗料販売店を創業し、以来、建築用や工業用などさまざまな市場で顧客を開拓してきた。福岡空港にほど近い本社の玄関を入ると、色とりどりの塗料サンプルが並んだ「ペインティングギャラリー」が広がり、社内は活気に満ちている。営業所は九州全域に広がり、東京や愛知、大阪にも常駐の従業員がいる。

 博文は、一史の3歳下の弟で営業面を統括している。腹蔵なく何でも話し合える兄弟であり、二人三脚で難局を乗り切ってきた同志でもある。かつて立ち上がれないほどの経営危機に直面した西井塗料産業。そのとき2人は何を考え、どのように行動したのか。西井兄弟の経験から、「経営者とは何か」を導き出したい。

●日産の発表に凍りつく

 事の始まりは1999年10月18日だった。

 一斉にすべての生産ラインがストップし、静まり返った日産自動車九州工場(現日産自動車九州)に、日産リバイバルプランを読み上げる日産のトップ、カルロス・ゴーンの声が響き渡った。工場の一角で、一言も聞き漏らすまいと耳をそばだてていた博文は、部品を納入するサプライヤー数を今後3年間で半減するという発表に凍りついた。

 西井塗料産業は日産が九州に生産拠点を設けた75年からのつき合い。リバイバルプラン発表時は、売上高の2割を占める年間50億円の取引があった。それまで塗装ラインは車体の下塗り、中塗り、上塗りをそれぞれ数社のサプライヤーで分け合っていたが、各工程1社に絞られることになった。どこまで納入価格を引き下げられるか。サプライヤーからの提示を受け、4カ月後に日産が選定するという。

 塗料メーカーはコスト削減の余地が比較的大きいが、西井塗料はメーカーと組んで、塗料を納める販売店にすぎない。自力で削減できるコストはしょせん知れていた。コスト勝負になれば、日産から真っ先に切られてもおかしくない。そして日産から切られれば他業界の取引先にも影響し、「塗料商社はもはや時代遅れだ」と取引を見直す動きが出てくるかもしれない。そんな最悪の展開も一史の頭をよぎった。

私たちに勝ち目はあるのでしょうか

 自社の存在意義は何か。生き残るために何をアピールできるのか。戦いはそれを見つけることから始まった。

 まず日産を担当する苅田(かんだ)営業所(福岡県苅田町)の従業員15人が、自分たちの仕事の中身を1日、1週間、1カ月、1年の単位で書き出した。すると「見えなかった仕事」が見えてきた。塗装ラインのトラブルが起きたら解決に出向くなど、いろいろな要望にその場ですぐに応えている。塗装しない部分をガードするマスキング材などの副資材も、要望を受けて納めている。「こんなものがないか」「あんなことができないか」という声を受け、従業員たちが一生懸命に走り回っていたのだ。一史は反省した。

 「それまで営業成績という表面的な数字しか見てこなかったが、日々の従業員の働きが積み重なって数字をつくっていたことに、恥ずかしながらそのとき初めて気づきました。他地域では塗料メーカーがそうしたサービスをするが、九州ではメーカーの手が届きにくいため、販売店のうちがその役割を担っていた。それが独自の強みだったのです」

 営業担当の博文は日産幹部に直接訴えようと、自社の強みをまとめた資料を手渡すことにした。当時、日産の幹部も多忙を極めて簡単には会えないため、幹部の自宅を訪ねて手土産と一緒に資料を渡したり、宿泊先のホテルを調べてフロントに預けたり、あるいは日産九州工場の車寄せで幹部が来るのを待ち、手渡したりもした。中には快く思わない人がいたかもしれないが、博文にはそんな方法しか思いつかなかった。

 サプライヤーの決定日が近づくにつれて、苅田営業所の従業員たちは不安を隠し切れなくなった。

 「私たちに勝ち目はあるのでしょうか」

 たまりかねた従業員が、経営陣に面と向かってそう聞いてくることもあった。そんなとき博文は、自分自身を鼓舞するように声を荒らげた。

 「ばか野郎! 負けるかもしれないと弱気になったら、勝てるはずがないだろ! コスト削減策でも品質向上策でも、思いついたアイデアはすべて、すぐに実行するんだ。しかし正々堂々、決して卑怯な方法は使うな。そうすれば日産の担当者は必ず見てくれる」

 そうして作り上げた、渾身の提案書。西井塗料産業の苅田営業所で、日産の購買担当者に手渡すことになった。4カ月間でやれることはすべてやり尽くしたという自信。この資料の結果次第で営業所が、もしかしたら会社そのものがなくなるかもしれないという恐怖。異様な空気に包まれた応接室で、博文と日産の担当者が向かい合った。お茶を出しに来た女性従業員は極度の緊張から手ががたがたと震え、博文の助けを借りなければテーブルに湯のみを置くことができなかった。

これ以上ないほどやり尽くしたのに

 2000年2月10日。発表の日。日産から「中塗りと上塗りは取引継続せず」と知らせが届いた。下塗りについては理由は不明だが、結論が3年後まで持ち越しになった。ただ、この瞬間に中塗りと上塗りなど計24億円の仕事が消失。外資系塗料メーカーの提示価格が予想以上に安かったことが、後に判明した。

 西井兄弟と従業員たちは奈落の底に突き落とされた。

 博文はこんなことを考えていたという。

 「やれることが残っていたならまだしも、自分たちではこれ以上ないというほどやり尽くしたのに結果が伴わなかった。体から力が抜け、もう駄目だ、と正直思いました。今回は下塗りが残ったものの、3年後はきっと選ばれない。そしてこのまま商売が細り、戦前から続いてきた会社もたたむことになるかもしれない、と」

 そんな暗たんたる気持ちになったときだった。盛和塾で、稲盛がよく口にしていた一つの言葉がぱっと、博文の頭に浮かんだ。

 「もう駄目だと思ったときが、仕事の始まり――」

 博文はその瞬間の気持ちをありありと記憶している。

 「もう駄目だというのは、まさにあのときの私の心境でした。でも塾長はそれが終わりではなく、始まりだという。そこから本当の勝負は始まるのだ、と。塾長もとんでもないことを言うなあ。そんなことを考えていると、少し気持ちが楽になってきたんです」

 下塗りの選定まで時間はある。博文は翌朝、営業所の従業員を集めた。

 「結果は大変残念だったが、みんなよく頑張ってくれた。素晴らしい戦いだったよ。私はみんなを誇りに思います」。博文がそう切りだすと、数人がすすり泣きを始めた。それを見た他の従業員もこらえ切れなくなり、全員がおえつを漏らした。その中で博文は毅然と言った。

 「これで終わりじゃない。ここから3年後に向けた本当の戦いが始まるんだよ。生き延びるんだ。このメンバーなら必ずできる。私は君たちを守るから、信じてついてきてほしい。みんなの力で必ず復活を果たそう」

絶望を希望に変えるには、強く念じるしかなかった

 博文は「本当に従業員を守れるのかどうかは、正直分からなかった」と明かす。ただ、絶望を希望に変えるには、強く念じるしかなかった。

 一人の従業員が「やりましょう!」と声を上げた。すると一人また一人、「やりましょう!」と続いた。この光景は博文の脳裏に焼きついている。

 「塾長は『人の心ほど頼りないものはないが、ひとたび一つになると、これほど強いものはない』と教えてくれていましたが、その通りでした。何かが変わり始めたのです」

 従業員が一つになっていくさまを目の当たりにしながら、一史はふと盛和塾に入塾した頃を思い出していた。まだ父が社長を務め、自身は総務・経理担当の取締役だったとき、地元福岡で開かれた例会で稲盛に質問したことがある。

 「うちの会社は九州を中心に、東京から鹿児島まで25の営業所があります。塾長に学んだ哲学を従業員と共有したいと思っても、物理的、時間的に難しくて悩んでいます。人心をまとめる要諦を教えていただけませんでしょうか」

 しかし稲盛は眉をひそめ、「人心掌握に要諦などない」と一史を一喝した。

 「営業所が多くて大変かもしれないが、あなたが足を運び、現場の人たちとコミュニケートするしか人心掌握の方法はありません。時間がないというのは、単なる言い訳です。あなたの熱意を持って、地べたを這ってでも営業所を回って歩くしか方法はないのです。熱意があればお父様を説得できるはずです。『会社をさらに素晴らしいものにするために、月のうち3日でもいいから日常の業務を外してください。その間、4カ所でも5カ所でも営業所を回りたいのです』と。それくらい言わんでどうするんだ」

 一史は穴に逃げ込みたいほど恥ずかしかった。人心を掌握するとはどういうことなのか。当時の一史には全くつかめていなかった。

絶妙のタイミングで気遣い

 なぜ、稲盛は大勢の従業員の気持ちをつかめるのだろう。以来、一史が盛和塾で稲盛の挙措(きょそ)に目を凝らすと「これか」とひざを打つことが何度もあった。

 例えば、ある例会で発表した塾生を、稲盛がこてんぱんに叱りつけた。司会者が「休憩時間に入ります」と案内し、会場の塾生たちが席を立ったまさにその瞬間。稲盛がさっと壇上から降り、真正面のテーブルに座っていた発表者の妻の元に駆け寄った。

 「旦那さんに、ちょっときついこと言ってしまったわ。ごめんなさいね。奥さん、旦那さんのこと気にかけてあげてくれるかな。よろしく頼むで」

 間近で見ていた一史は体に電気が走った。他の塾生にはあまり見られないように、絶妙のタイミングで、塾生とその妻にさっと気遣いをする。相手を思いやる心がなければ、到底できることではないと思った。

 一史は、稲盛に学び続けた。「雇用する側」と「雇用される側」という割り切った関係ではなく、もっと人間的なウエットな間柄を従業員と築きたい。稲盛が唱える「大家族主義」を一史は目指し、試行錯誤してきた。大口取引の消失という危機下でも従業員がばらばらにならず、むしろ団結していけたのは、こうした下地があったからだ。一史はその手応えを感じられたことが、少しうれしかった。

 実際、上塗りと中塗りの仕事がなくなってからというもの、西井塗料産業の従業員は火の玉となって働きだした。

 他の営業所のメンバーの顔つきも変わった。苅田営業所のメンバーが、生き残るためにどれほど血のにじむような努力をしてきたのかを聞いて、「稼ぎ頭だった苅田営業所の存続のためにも、自分たちが頑張ります」と言ってくれた。赤字続きだった営業所が黒字に転換するなど、従業員の奮闘ぶりは西井兄弟を驚かせた。

 戦いには負けたが、自分たちの強みがサービス面にあると分かったのは大きな収穫だった。塗装不良の対策提案や取引先への塗装技術研修など、顧客ニーズを先取りした営業活動で必死に新規客を獲得した。そうして新たなノウハウと実績を蓄積した上で、日産に対してさまざまな改善提案を続けていった。

 「塗料販売店がグローバル展開することは考えにくい。九州ローカル企業としてできることを徹底するしかない。その決意で3年間頑張った」と一史は振り返る。

あいつらだけは、何とか助けてやれんか

 そうして迎えた03年の下塗り工程の決定日。この仕事を失えばいよいよ息の根を止められるかもしれない。そんなことを考えながら、博文は取引先と道を歩いていた。

 会社から携帯電話が鳴った。

 「決定です!」

 博文はその瞬間、人目もはばからずぼろぼろ泣いた。一緒にいた取引先は何事かとびっくりし、心配そうに博文に声をかけてきた。同じ頃、業界の懇親会に出席していた一史もまた、電話口で顔をくしゃくしゃにしながら涙を流していた。

 後日分かったのは、コスト的に決して優位に立っていたわけではなく、現場を知り尽くした的確な提案、そして熱意が実を結んだということだった。真偽のほどは定かでないが、こんな話も伝え聞いた。ある日産の幹部が、「あいつら(西井塗料産業)だけは、何とか助けてやれんか」と社内で言ってくれていたのだという。その人は、前回の上塗り、中塗りの戦いから始まり、博文が資料を何度も何度も手渡していた人だった。

 リバイバルプラン前に250億円近くあった売り上げは、その後200億円程度で推移している。利益率が低い仕事を切るなど高収益戦略に徐々にシフトしたためで、利益額は以前よりむしろ増えている。もちろん、リバイバルプランを通じて、組織が一丸となれたことも収益向上に結びついている。

 西井兄弟には、忘れられない思い出が1つある。

 リバイバルプランをどう乗り越えるか、まさにその会議をしていた頃、ある営業所の所長が変な咳(せき)を繰り返していた。「おまえ大丈夫か。一度病院に行ってこいよ」と一史が促すと、数週間後、肺がんと診断されたと連絡が入った。

 その所長は入院中も会社や仲間のことを気にかけていた。「こんな取り組みをしたらどうでしょうか」と一史や博文、部下たちに、病床からアイデアを出し続けた。

 がんは、すでに進行していた。有給休暇を消化した後も、一史の配慮でしばらく収入や健康保険が途絶えないようにしていたが、それも難しくなった。

血が通った人間関係が生まれる場所

 「収入がないと入院費に困ることは、従業員たちもよく知っていた。『社長、何とかしてあげられませんか』と心配してくるので、その所長の奥さんをパートに雇おうかと考えた。もちろん形だけ雇うことになるから、実際には戦力にならない。『その人件費分をおまえたちがカバーしなくちゃいけないんだぞ』と言うと、『僕たち頑張りますので、ぜひそうしてください』と。奥さんは丁重に遠慮されましたが、仲間思いのやつらばかりでね」

 その所長は余命宣告を大幅に超え、4年間生き続けた。上塗りと中塗りの工程では敗れたものの、下塗りの仕事を死守する仲間の勇姿を見届けることができた。

 通夜の日。一史は大勢の従業員と共に、最後の別れに出向いた。

 仏様を拝もうと棺をのぞいた瞬間、思わず息をのんだ。亡くなった所長は会社の制服姿で棺(ひつぎ)の中に横たわっていた。長年愛用した紺色のブレザーを着て、ネクタイまで締めていた。本人が強く希望していたのだという。一史と従業員たちはしばらくの間、声を上げて泣いた。

 従業員が亡くなった後、その妻は「年末の忘年会で使ってください」と、一史に酒を毎年贈ってくるようになった。そして10年目の年、こんな手紙が添えてあった。

 「主人が亡くなって随分たちます。とうの昔に会社に籍がなくなった者の家族が、こういうことをずるずると続けるのはいかがなものかと常々反省しております。ただ申し訳ありませんが、来年まで続けさせてください。主人が生きていたら来年で定年を迎えます。主人に西井塗料産業の従業員として、定年を迎えさせてやりたいのです」

 一史は感慨深そうに、こう話す。

 「西井塗料産業に対して、こんなにも温かい愛情を寄せてくれる従業員や、その家族がいる。それが本当にうれしい。会社で働く仲間は、もともと赤の他人ですよ。それなのに同じ目標に向かって、『これじゃ駄目だろ』と叱ったり、『おまえ、よくやったな』と褒めたりする。会社というのは血が通った人間関係が生まれる場所であり、経営者はそれを育まなくてはいけない。塾長にはたくさんのことを教えてもらいましたが、私の一番の心棒になっているのはこのことです。まだ道半ばですが、どうにかそっちの方向に進んでいるんじゃないかと、がんで亡くなった従業員と、その奥様に教えてもらいました。制服姿で旅立った彼も、私たちと心でつながっていたから、孤独ではなかったはずです。こうした家族的な会社を一生懸命につくることが、経営者とは何かという問いへの、私の答えです」https://news.yahoo.co.jp/…/6cf6919787435c84d33efce0873f…

フィロソフィ経営哲学 実践KI経営哲学 京セラフィロソフィ2022年12月14日  · 稲盛和夫氏曰く「もう駄目だと思ったときが、仕事の始まり」12/12(月) 6:00配信
https://news.yahoo.co.jp/…/6cf6919787435c84d33efce0873f…NEWS.YAHOO.CO.JP稲盛和夫氏曰く「もう駄目だと思ったときが、仕事の始まり」(日経ビジネス) – Yahoo!ニュース稲盛和夫氏が主宰した「盛和塾」で、経営者たち

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